放射能とユッケに共通する問題

配信日:2011年

最近は「問題が起きてそれまでのシステムや制度が疲弊していることに気づく」というケースが多いように思います。原発問題もユッケ問題もその点では一致していると思います。考えてみれば年金問題もそうだった。しかし、もう一つ共通する点があります。

「ユッケが290円や380円で食べられる」ということについて、消費者は味の期待はしないものの、安全性まで疑うことはなかったと思います。これは仕方ないかもしれません。いま考えてみれば「そんなに安いユッケなんて」と思えるのですが、店でメニューに載っているそれを疑うことはほとんど不可能だったわけです。なぜならば「商品化されているから」。

この意識はきっとお店にもあって、生肉として提供しても大丈夫だろう、なぜならば「業者が卸しているから」と考えていたに違いありません。そして業者は業者で、卸しても大丈夫だろう、なぜならば「行政が大丈夫だと言っているから」。もう、こうなるとたらい回し(思考停止?)の連鎖反応そのものでして、多分、行政も、許可して大丈夫だろう、なぜならば「そういうルールでやってきているから」となるわけです。

一体、誰が主体的に物事の判断をしているのか?

原発にしてもこれと同様の構造があるように思います。「東電がこういっているから」「中電がこういっているから」「専門家がこういっているから」「政府がこういっているから」・・・。今回の地震や津波がなければ、いまでも福島も浜岡もそれまでどおり運転していたはずです。なぜならば「そういうルールでやってきたから」。

食品のマーケティングでは「特保(トクホ)」はちょっとした神通力を持っていて、そのマーク(ブランド・マーク)が商品に付いているだけで「健康によい」というイメージを作ることが出来ます。しかし、もしユッケのような状況があるとしたら、一体、本当のところはどうなのだろうかと疑ってしまいます。

そもそもマークとは、そういう「よくわからないもの」「よくわからない状況」に対してシンプルでクリアな解釈を与える「記号」として発達してきました。しかし最近ではそれを許可する側までも、よくわからないままマークを付けているのではないかと疑ってしまいます。

それを許してしまうのは日本人の国民性かもしれません。「お上の言う事に従順だ」というのは昔から言われることです。事実、福島の原発事故が発生して外国人は一斉に成田から帰国したのに、日本人は必ずしも騒ぎ立てるわけではなかった。なぜならば「国が大したことないと言うから」。これが歴史的に戦乱や動乱を繰り返してきた中国人なら絶対に国の言う事など信用しないでしょう。そもそも日本人は「国の混乱による自身の流浪」に慣れていない。そういうDNAではないのです。

「お上が言うことが必ずしも安全で正しいわけではない」というのは「お上自身も事情がよくわからなくなっているから」ということのように思います。年金問題はその典型。誰もが他人任せの判断をしている可能性がある。そのようなことを考えると、これからは「自分で判断できる」ということがとても大事なことのように思います。

もっと言うなら「自分で判断できる国民が増えるとこの国は変わるのではないか」と思います。大人の国になれるのではないか?

エネルギーの問題も食品の問題も、環境の問題も教育の問題も、お金の問題も健康の問題も、老後の問題も医療の問題も、自分の幸福の問題も他人の幸福の問題も、仕事の問題もやりがいの問題も、すべては自己責任(オーナーシップ・マインド)を持つことから始まり、個々人のそういう考え方や姿勢の総和が国を変えるのではないかと思います。(政治が国を変えるわけではない。)

サラリーマンの税金だって、本当は給料天引きではなく、自分の額面金額から税金を払う、あるいは節税を行う、というふうになると我々はもっと行政に対しても関心を持つようになれるかもしれません。自分で稼いだお金を自分で考えるようになるからです。これは独立して実感する人も多いのではないでしょうか?

自分で判断するのは勇気がいりますが、世の中との関係性はそのようなことを求めてきているように思います。

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