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やってしまった失敗とやらなかった失敗

配信日:2011年

サラリーマンをやっていた頃、私は本当に多くの失敗をしました。AGFでの最初の仕事、インスタント・カプチーノでは価格を下げすぎてブランド価値を傷つけ全然売れず、挙句の果てはカプチーノ(コーヒー)の世界で「泡立ち」というユニークネスがあるのなら、紅茶の世界でもありなんじゃないかと「泡立ち紅茶」という、ケッタイなラインエクステンションを行なって失敗しました。(現在、スターバックスやタリーズ、または午後の紅茶などでこのような製品が売れているのを見ると時代も変わったなと思います。)

マキシアムでは12月に恋人たちにシャンパンを売るために「ミニチュア手錠で繋がれたカップル専用のシャンパン・グラス」を開発して大コケし、ハーシージャパンではバレンタイン・シーズンに恋人に「大きなキス」をプレゼントするという意味を込めて、野球のボールほどもある大きさのキスチョコをアメリカから大量に仕入れ、まったく見向きもされず・・・。白状し始めるとキリがないのですが、いやはや、今、このように書いてみると情けなさを通り越して愛おしくさえ感じられます。

しかしそのような経験は、不思議と後悔にはなっていません。会社にしてみたらいい迷惑だったでしょうが、私自身はこうした経験こそが自分の資産になっていると考えています。そういう意味では「会社にとっては失敗だが私にとっては成功である」とも言えます。

これが会社のありがたいところでして、そのような経験をさせていただけた度量の深い会社に感謝しています。

失敗というのは2つの分類ができるのではないかと思います。一つは「やってしまった失敗」で、もう一つは「やらなかった失敗」です。

「やってしまった失敗」は「あーあ、やらなきゃよかった」という失敗です。あーあ、この店に入らなきゃよかった。あーあ、あいつのために頑張らなきゃよかった、という類のものです。このパターンは、しかし前向きな学びがそこについてきます。

「今度はこうしよう」「今度は同じ轍を踏まないぞ」という学びがあり、それによって自分自身を納得させられるように思うのです。まさしく私の数々の恥ずかしい失敗もこのパターンでして、その都度痛い思いをしたせいか、最近ではそのような失態も少なくなりました(と思います)。

同時に「やってしまった失敗」は「やらなかった失敗」に比べて、比較的傷が浅いようにも思います。いつまでもそれを引きずることがないように感じるのです。これは人生を前向きに生きていくうえでとても大事なことだと思います。

一方、「やらなかった失敗」はいつまでも後悔し、しかもその後悔が別の後悔を生み出すように増殖していきます。「どうしてあの時、ああしなかったのだろう」「そもそも何故、あそこでこのように考えなかったのだろう」と、自分自身の臆病さや弱さをいつまでも非難しつづけるようになります。

さらに悪いのは「やらなかった」ことによって、何の学びも得ることができないことです。当たり前のことですが、ライフルで鹿に照準を定めるだけで、実際に発砲しなければ狩の腕前は上がりません。どんなにボクシングの本を読んでも、実際にスパーリングをこなしてみなければ動く相手を正確に捕らえるパンチのコツは得られません。

同じことはマーケティングの現場でも言えます。8年ほど前、ある会社の三代目社長が私に言ったことがあります。「あなたはブランディングの専門家だけど、私もブランディングの本なら図書館が出来るほど読んだ」と。しかし今見ても、読書はされても実行まではされなかったようでした。(私も呼ばれて伺ってはみましたが仕事にはなりませんでした。)

もし何もしないのなら、一体、本を読む価値はどこにあるのか?知的好奇心を満たすこと以外の実利的な価値は一体何か?

またやってもみないで結論を出すことは本当に正しいことだろうか?特に他人からみたら馬鹿じゃないかとおもわれるような「ワクワクするプロジェクト」を、やってみる前に放棄してしまうことは、放棄しなかった時と比べてどちらが価値があるのだろうか?

やらなきゃよかった失敗は価値がありますが、やらなかった失敗はマイナスの価値しかないといのが私の結論です。そう考えるとやらなかったこと自体が失敗であって、やった失敗というのは成功にすら思えます。

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