私たちは何故、産みの苦しみを味わうのか?

配信日:2013年4月15日

脚本家志望の友人がいます。まだ作品を書いたことはなく、これからなのですが、先日、一緒に食事をした時に「なかなか筆が進まない」と言っていました。

聞いてみると、書きたいことがたくさんあり過ぎて内容を絞り込めないとのこと。「書きたいことがたくさんある」など、ある意味、うらやましいことだと思いました。まさしくアイディアが溢れだしていて、終止がつかない状況です。

そんな話を聞きながら、私は初めて新製品開発をやった時のことを思い出していました。まったく同じなのです。自分の理想とする新製品があまりにもキラキラし過ぎていて、一体、何を作りたいのか自分でもよくわからない状況でした。

本の執筆もそうです。本を書こうと思い立ってから、一体、どれほどの時間を「考えをまとめること」に使ったことか。新製品開発や広告クリエイティブの開発を通じて、クリエイティブな作業には、必ず「産みの苦しみ」がつきまとう、と思っていたので尚更でした。

そんなことを思い出しながら、私は彼に言いました。「書けないのは、当たり前だよ」と。ことに、真剣に考えていればいるほど書けないものかもしれません。「僕も5冊目の本と4冊目の本の間には5年もブランクがあった。そういうものかもよ」彼は彼なりに理解したようでした。

そもそも何故、私たちは産みの苦しみを味わうのか?
それが純粋な表現行為だからかもしれません。自分を表現することへのこだわり。こだわりがあるから、生みだすものに厳しくなる。厳しさは自分自身へのハードルの高さとなり、ハードルの高さこそが自分のこだわりを示すものとなるようです。

また企業で働くマーケターであれば、「売れる製品を作るために」という答えもありそうです。自分自身の表現以上に「売れること」を満たすものであること。これも一種のハードル。売れるということに関するこだわりそのものでしょう。これは本の執筆でも言えることです。私も含めてどんな著者も、少なからず売れることを願って本を書いています。

しかし皮肉なもので、あまりにも売ることを目的にした本は、どうも読者からその目的を見抜かれてしまうことが多いようです。仮に買ったとしても、読者も文面を見ながら、なにかそういう雰囲気を感じるのでしょう。途中で読むのを止めてしまうことが多いのではないかと思います。

一方、書くこと自体を目的にした本は、とても楽しく読めるようです。売上など「何かのために」書いた本ではなく、「書くために書いた」本ですね。そういう本は、著者の書くことに対する楽しさと、ノリの良さを感じます。そして私などはそういう本を読むと、文章そのものに惚れてしまいます。

「何かのために、何かをする」というのは、実はあまりよい結果を産まないのかもしれません。経営学では「目的のために手段を選ぶ」となります。これはごく当然の考え方なのですが、手段そのものが目的化した時のほうが良い物が生まれるように感じるのです。非常識な話だとお考えになるかもしれませんが、敢えて今、そう書いています。

先日、ランニングをしていてそう思いました。「何故、私は走るのか?」
当初は「健康維持のため」など、目的を持って走っていました。しかし、その頃は何かというと走ることをサボっていたのです。しかし、やがて走ること自体が楽しくなってくると、「走ること」そのものが目的になりました。するとサボるという発想はありえなくなり、むしろ以前よりも健康的な生活になりました。

本を書く、または仕事をするのも同じかもしれません。今はなきスティーブ・ジョブズは、「売上をあげること以上に、オレが納得できるものを作りたい」という、手段の目的化によって革新的な製品を生み出してきたのではないか。良い意味で究極のオタクではなかったかと思います。(ジョブズに限らず、ブランド経営の社長はそういうタイプが多いのです)

売上を上げる(目的)ために良い仕事(手段)をしようと思ったら、仕事そのものを目的化したほうが良いかもしれません。要は楽しむこと。脚本家の彼に言いたいのは、本を書くとこ自体を目的化すると、紡ぎだす文章の一つ一つを楽しめるようになること。それを感じながら書くことが、良い本を生みだす秘訣ではないかと思います。

きっと、行為そのものを目的にするとクオリティが高まるのです。製品開発でも同じ。その場合、消費者も「何か問題解決するためにこの商品を買おう」という発想(レベル)ではなく、「この商品を買うこと自体が目的だ」と思うようになるに違いありません。

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