配信日:2014年4月2日
「私は、もう一度人生をもらえるとしても、監督をやる必要はない。監督としての私は、この人生で、完全燃焼するつもりだからだ。」日比谷線恵比寿駅で見た広告コピーです。ザッケローニ監督の言葉(コピーライターではなく、だと思います)。
誰が書いたにせよ、いい言葉だなぁ、と思います。私はこういう生き方が好きですし、そのために毎日、好きなことをします。おそらく誰でもそうでしょう。ひとは自分の時間を無駄にしたいとは思いません。
先日、望月龍平さんの「君よ、生きて」という芝居を見ました。シベリアに抑留された日本人たちの話です。そのなかでは極寒での重労働と空腹に耐えながらも、たくましく生きる人たちが描かれていました。正直、涙が止まらない作品でした。
一方で、私は「この人たちの人生の目的は何だろうか」と考えました。“魂の欲求”です。シベリア抑留のように、誰かに何かを強要されるような人生であっても、そこには自分で選んできた“ゲーム”があると私は考えています。ザッケローニ監督がサッカーでの完全燃焼を志したのと同じく、どのような人にも完全燃焼を目的に人生の題材を選んでいるに違いありません。
「君よ、生きて」が芝居として上演されたこともありました。私の中では役者の方々が演じるのと、実際の人生を“演じる”ことがシンクロして見えました。そこにある目的は、どちらもスタンディング・オベーションです。誰も見ていなくても、私たちは人生を終える時に自らスタンディング・オベーションをするに違いありません。これこそ完全燃焼の醍醐味ではないでしょうか。“魂の欲求”とはそれをしたがっていることでしょう。
「職業に貴賤はない」というのは本当です。立派な仕事をすることも、誰からも評価されないような仕事をすることも、その人の“魂の欲求”に照らし合わせれば、どちらもちゃんと機能しているに違いありません。日の当たる人生も日陰の人生もありません。それぞれにそれぞれの目的があり、その舞台設定のなかで人生は進みます。
それでも、もし自分の意思にそぐわないことをしているとしたら、いますぐ別のことをすればいいのです。もしそれが出来ないのであれば、今の人生を愛したほうが良いと思います。どちらにしても、きっと現世の私たちでは想像も出来ないような芝居を、私たちは演じています。そして最後にあるのは完全燃焼、スタンディング・オベーションに違いありません。