配信日:2014年11月06日
ひとりでの夕食後に、くつろいで酒を飲む時など、よく人生が終わる時について考えます。「死とはどのようなものか」と思いめぐらせます。
まったくのポジティブな心理状態での思考です。思うに、死について考えることは「生」を考えることでもあります。一種のミラーリングです。いつまでも生き続ける前提で生活していると人生の張合いや真剣さも失われるというもの。逆に「あと数日で死ぬとしたら何をするだろうか」といった設問に取り組むのは「いまの生」を考えることに繋がるようです。
「この人生で一体、何を残せるだろうか」も関連テーマです。人によってはお金や会社を残すというでしょう。ブランディングでは「思い出」が答えです。そのブランドが単なる製品でなく「ブランド」だった場合、人々はそのブランドが終売になっても、そのイメージや自らのブランド体験を記憶していて「良いブランドだったよね」と言ってくれます。人の場合も同じですね。
逆に「この人生からあの世に持っていけるものは何だろうか」も考えると面白いかもしれません。人によっては「何も持っていけない」と言うことでしょう。そうかもしれないな、と思わないでもありません。しかし一生を通じて得た経験や学びが、その人生だけで仕切りなおされるとは考えづらいのも確かです。
死後の世界の話でよく聞くのは「人は死んだときの感情をそのまま死後にも持ち込む」「それが死後の世界を決定する」という話です。死後、自分が快適と思う、相応しい世界です。こころの状態を映し出した世界。非常に興味深いと思いませんか。そうであれば「あの世に持っていくのは“感情”かもしれません。
そうだとしたら「幸福感」を持っていきたいものです。幸福感、私が毎日感じるものがこれです。そのせいでしょうか、幸福感と死は近いもののように感じます。実は人生が終わる直前の幸福感とは「日常の些細なこと」ではないかと考えています。何かを食べて美味しかったとか、誰かと話して楽しかったとか。
しかし、死の直前とそうでない状況とで、一番違うのは「感謝の量」ではないかと思うのです。なんの根拠もないですが、死の直前のほうが感謝量は圧倒的に多いように思います。自覚はないけど、魂のレベルでは自分の死を分かっていて、すべてのものに感動し感謝できるのではないか。
これを生きているうちに認識したら、毎日はもっと幸福感に包まれたものになるでしょう。感謝するかしないかで、大いに幸せの量が変わります。いつ死んでも良いように、日頃から感謝する人間でいましょう。他人に感謝を求める人間ではなく、他人の施し(ほどこし)やつながりを感謝できる人間でいましょう。