答えを知らない問題にどう向き合うか
配信日:2020年2月26日
連日、新型コロナの話が尽きません。現場で対処している医療チームや病院の方々、本当にお疲れ様です。いまの日本での対策や対応方法にいろいろ言う人もいますが、僕は「現場は一生懸命やっている」とおもっています。文字通り命がけの仕事で感謝してもしきれません。
韓国やイタリアで感染者数が急激に増えていることにも驚いています。しかし冷静に考えてみると「感染者」とカウントされるのは何らかの検査を受けてはじめてカウントされるので、「検査を増やせば可視化された感染者数も増える」というのが真実だと思います。おそらくこれらの国では検査の数が日本と全く違うのでしょう。検査の母数が圧倒的に多いと思います。よって、感染者数を他国と比べて「静観する時期だ」というのは危険で、怖いのは「検査を受けていない潜在的感染者」の存在です。国も一生懸命に検査のキャパシティを増やしていますが、なかなか追い付けるものではなく、こうなるとやはり、個人的な水際作戦しか行えることはない。一人一人が「うつさないこと」「うつらないこと」をこころがけるしかありません。
今回のような「答えを知らない問題」を解決するにはどうしたら良いか。実は国の偉い人たちもわからないのだろうと思います。日本人は明治以来、「答えは必ず誰かが知っている」という前提で教育を受けてきたとよく言われます。明治の頃であれば西欧列強という「先生」がいて、そのモデル(答え)を真似る・学ぶことでやってきた。だから先生(teacher)というのは「(答えを)教える人」という意味です。官僚を悪く言うつもりはありませんが、日本のエリート層というのはそういう「答えを知っている・記憶している」ことが強みだった。しかし、いまのコロナのように(または21世紀の世界情勢のように)、これまで体験したことのない問題が多くなると、20世紀に「答えがある前提」で教育を受けた者は突然、機能しなくなるのだと感じています。
誰も答えを知らないのだから、これはもう、意思をもって決めるしかないのです。正しそうだと思われるアイデアをだして、「答えを決める」プロセスです。ここに21世紀型の教育があるかもしれないし、実際に北欧ではそういう教育も始まっています。そこでは、答えは考えるひとの数だけ存在します。しかしこれは結構、しんどいことだとも思います。考える、もっというと自由に考えるというのは大変なのです。逆に一番ラクなのは誰かが「こうしろ」と指示したとおりにやること。時には「答えを出さない」という答えで逃げるひともいます。そんな答えでも構いません。そのひとの自由ですが、そこには責任も付いて回ります。いずれにせよ自分で脳みそに汗をかいて決めて、主体的に実行・やり抜くというのはしんどいものです。それだけにこれは「生きる力を身につける」ことになると思います。