家紋の話

配信日:2022年10月19日

今週から2週に渡ってブランドロゴやブランド名のヒストリーを紹介します。今回は「家紋(ブランドロゴ)」について。羽織などに示される、日本人に身近なブランドロゴと言えるでしょう。先日、東銀座の歌舞伎座に行った時、売店で家紋入りのキーホルダーを売っていました。ちょうど家紋の専門家のひとも売場にいたので「水野の家紋はどれでしょうか?」と訊くと「名字によって家紋は決まっているわけではなく、同じ名字でもそれぞれの家で家紋は自由に決められます。おたくの家紋は何でしょうか」と逆に訊かれました。その場では答えられなかったのですが、興味を持った僕は後日、家紋を調べることにしました。

我が家の家紋は「抱き沢瀉(だきおもだか)」でした。38年前、祖父の訃報を知らせる手紙に家紋を入れるために母が調べていたのです。調べてみると、沢瀉は水田や溜池などに生息する植物で、葉の形が矢じりに似ていることから武家に愛された家紋だとのこと。我が家は武士階級ではないので「家紋は好きに選んでよい」を実感した瞬間でした。しかしこの抱き沢瀉、更に調べると多様にあることが判明。例えば以下のようです。

抱き沢瀉

抱き沢瀉

丸に抱き沢瀉

丸に抱き沢瀉

中輪に抱き沢瀉

中輪に抱き沢瀉

これなどはほんの一例ですが、いろいろなバリエーションの沢瀉紋があります。「丸に抱き沢瀉」と「中輪に抱き沢瀉」の違いなど、ほとんど間違い探しのレベルです。僕の家は「中輪に抱き沢瀉」でしたが、正直、我が家のご先祖が何故このデザインを選んだのか、更に謎が深まりました。

世界中を見ても家紋(エンブレム)の文化は日本と欧州(ただし貴族のみ)だけのようですね。日本では平安時代に貴族が牛車や衣服に自分の好みのマークを付けるのが流行したのが始まりです。この時は植物や花をモチーフにした雅(みやび)なものが好まれた。しかし家紋がもっと一般に広まるのは武家社会になってからです。武家の家紋は戦(いくさ)の時に幕や袖印に用いられ、敵味方を識別させる役に立ちました。だから遠目にもわかるようにデザインは単純化され、一目でパターン認識できるようになっています。そういう意味では、島津家(薩摩藩)の「丸に十文字」は最も優れたデザインの一つと言えるでしょう。

抱き沢瀉

丸に十文字

家紋が広く一般の家にも浸透したのは、武家が自分の惣にいる地侍(武装農民)や土地を持たない百姓を合戦に参戦させたからだと言われます。特に戦国期には地侍をルーツに多くの新興武士や足軽も成立し、また江戸期の庄屋や大百姓もまた地侍の子孫であることが多く、これによって家紋は社会一般に広く浸透しました。日本の家紋の面白さは、地侍たちが本来は農民でありながら貴族から発生した家紋を自由に持つようになったこと。そしてその惣の小農民までもその家紋を共有し、または独自の家紋を持つようになったことでしょう。それらは提灯や裃(かみしも)にも使われ、村役についた時や冠婚葬祭の時に誇らしげに示されたのだと思います。

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